過敏性腸症候群(下痢型)の対策 社会人編
学生編に続き社会人編の記事になります。学生編はこちら⇒過敏性腸症候群(下痢型)の対策 学生編
なんとか出席日数ぎりぎりで高校を卒業し、就職しました。そこから現在に至るまでの行動を記録していきます。
また、ここでは一般的に対策とされている、薬・運動・マッサージ等の効果が無く、日々の生活の立ち回りを考えてどのような行動を取ったかの対策になります。私の場合は、薬等でどうにかなるようなレベルでは無かったので。
過敏性腸症候群から脱線してしまいところもありますが、こんなヤツも居るんだと思って読んでいただければ幸いです。
就職先選定
何にも考えずに決めた就職先
今まで、小中学生時代の通勤手段は徒歩、高校時代は自転車でした。 私が選んだ就職先は、自転車⇒電車⇒徒歩で通勤時間は約1時間で業種は製造業(工場)。
人前に出るのが苦手(緊張⇒便意)なので選択したが、通勤が一番の難関でした。 学生時代は通学に電車はありませんでしたが、定刻通りに到着する電車を待つことができませんでした。 ちょっと意味わからないですかね?(笑)。 後5分で来る電車に乗り遅れたら遅刻だと思うと、その5分に便意が来る。乗ったらトイレいけない、乗らないと遅刻。ということです。
学校みたいに遅刻・早退・欠席はできないので、2か月で退職しました。
この時、自分は仕事できないのでは?と焦りを感じました。
アルバイト時代
友人が勤めていた深夜の工場で働きだした。小さな工場で深夜はほとんど社員が居なく、流れ作業でもない。また、通勤時間は10分でスクーター(姉のお古)だったので、楽勝でした。 勤務時間も6時間と短く時給は1500円、9000円/日である。 足りない分はパチンコで稼いでいました。
この生活をおよそ5年続けていました。
派遣時代
さすがにまともに就職しないとまずいと思い、いきなり社員だと以前の失敗があるので派遣⇒社員登用制度がある職場を転々としました。 派遣でトイレに行きやすい環境かどうかを確認するのが目的。
約2年短期派遣を続け(裏でパチンコ)、そのうち1年位続いた「勤務先で社員にならないか?」と声をかけていただいた。当時、7人しかいない会社だった。 給与も今までもらった最高額以上出すと言ってくれたので、承諾した。 本当の決断理由は「トイレ行きます」とか言わなくても、「自由に行っていいよ~」という対応だったのは言うまでもない。
社員時代
ここでも工場だったが、人数が少ないので役に立っている感が強く感じられ頑張れた。 安全・品質・効率化を掲げ、改善に大いに取り組んだ。実は早く帰りたかっただけなんだけど。
給料はどんどん上がり、人員も増えてきて新しい社屋(事務棟・工場)が立つことになる。
このころは、自分で計画を立てて仕事をさせてもらえたので症状はあまり出なかった。
今思えばこの頃が一番よかったと思える。
工場勤務から内勤へ
リーダー⇒課長⇒部長へ
この頃社員は約50人+アルバイトまで増えていた。部長になるころにはほぼ内勤になっていた。しかも部下は年上が多い。 私は黙々と作業するのが向いているのはわかっていたが、想像通りいわゆる管理職は真逆だった。50人足らずの会社なので、兼務が多く購買・人事・総務的な作業も含まれていた。 なれない作業と現場監督的な両立は難しくすべてが中途半端になってしまいがち。
このころから、お腹の調子が悪くなる日があきらかに多くなる。
業績が落ちる・品質不良が発生すれば私の責任だ。
家庭の事情
さらにこの頃、家族の具合が悪くなり不安要素が増大する。この病に先が見えない不安は厳禁だ。症状は悪くなる一方。病院から強力な下痢止めをもらうがほとんど効果が無い。
現在
何とかごまかしながら頑張ってきたが、ついに心が折れてしまい経営者に相談した。 なんとなく感ずづいてくれていたようで、中途で私と同じ立場で働いてくれる方のめぼしはつけているとの事だった。 二人でツートップとして頑張ってくれと言われている状態。
とりあえずのまとめ
なんか、記事を書いていたらすごい脱線してた。
ブログを始めたきっかけは、誰かに聞いてもらいたいと言う思いがあったのだと思う。
この先どうなるかわからないが、やれるだけやっていくつもり。無理そうだったらユーチューバーにでもなってやろうかって本気で思ってる次第だ(笑)
過敏性腸症候群はうまく付き合うしかないと思ってきたが、やっぱりここぞという時に差が出ますね。私もそうですが、考えすぎて「不安になる⇒便意がくる」はいつまでたっても治りませんでした。
若いころにスキルを身につけることが、生きるための選択肢に直結しますので、この病気と向き合う最良の手段だと感じる今日この頃です。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
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